2023.05.30

人々は、時代を超えてさつまいもに熱中してきた。

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さつまいもがもつ魅力とは。
川越市から日本のさつまいもの歴史を紐解く。

「自称、日本一のさつまいもオタクです。さつまいものことなら何でも聞いてください」
そう語るのは、株式会社さつまいもカンパニー代表取締役の橋本亜友樹(はしもと あゆき)さん。普段からさつまいもについて、各種メディアや、講演活動を通してあらゆる情報を発信している。
霧島酒造の焼酎造りにおいても無くてはならない存在のさつまいも。今回は橋本さんに、日本におけるさつまいものルーツを語るには欠かせない埼玉県川越市を起点とした、さつまいもの歴史についてお話を伺った。

『栗(九里)より(四里)うまい十三里』
江戸時代、さつまいもはこのキャッチコピーと共に、江戸の町で大流行した。当時、庶民にも手が届く価格の、甘い食べ物は希少だったのだ。川越は、消費地である江戸から十三里(一里約4km)離れているものの、川で結ばれていることから、重くかさばるさつまいもを船で運搬することができ、生産地として定着してきた。
「川越はお菓子文化なんですよ。芋せんべいや芋納豆は、さつまいもに馴染みが深い、川越ならではのものです」と橋本さん。川越で作られてきた紅赤(べにあか)という品種が、あっさりとした味わいだったことから、その特徴を活かしてお菓子作りが浸透した。
時代に合わせてスイーツ文化は育まれ、現在の川越は観光地としても盛んな場になっている。今では全国各地で行われている観光芋掘りも、川越で始まったと言われているそうだ。10月13日さつまいもの日の宣言は、川越にある「川越いも友の会」が行った。

川越芋のモンブランソフトクリーム
「川越プリン(左から河越抹茶・なめらか・川越いも)」

川越を含む関東圏はスイーツとしてのさつまいも文化が広まっていることに対して、九州は、焼酎などの一次加工のための生産が多い。一説によると、これには九州のシラス台地が、米作りに不向きなことが関係している。
日本酒はなかなか作れない。しかし、日々の労いとしてお酒への需要は絶えない。そこで、手に入りやすいさつまいもで造る焼酎文化が根付いてきたのだ。
霧島酒造が年間に使うさつまいもは約10万トンにも及ぶ。これは日本全体のさつまいもの収穫量からみても大きな割合を占める数字だ。橋本さんは芋焼酎についてこう語る。
「九州の芋焼酎文化は、さつまいもの需要を支え続けているんです。その価値は大きいと思っています。それに、焼酎用として使われているさつまいもでも、意外と食用としてもおいしく食べられるものもあるんですよ。焼酎用だけだと勿体無いくらいの可能性は感じますね」

そもそも、橋本さんがさつまいもに興味を持ったきっかけは、中学生の頃訪れた1990年の大阪花博にあった。「当時も環境破壊とか、砂漠化とか、食糧危機とか。そういった話題が扱われていたんです。そこで、いろいろと本を読んでみると、江戸時代や戦時中、さつまいもで命を繋いできたという日本の歴史があることを知りました。すごい食べ物だなと思ったんです」
中学生だった橋本さんの目に、さつまいもは輝いて見えたのだ。

瀧泉寺 目黒不動尊 青木昆陽の像

江戸時代にも、橋本さんと同じようにさつまいもに魅了された人物がいた。
甘藷先生とも呼ばれている蘭学者、青木昆陽(こんよう)だ。栄養価が高く、育てやすいさつまいもは飢饉の際に必要な作物だと考え、かねてよりさつまいもの研究を進めていた。その後、享保の大飢饉が起きると、将軍である徳川吉宗も青木昆陽のさつまいも作りに着目。これがさつまいもを全国に広めるきっかけになり、その後起きた数多くの飢饉を救ってきた。
「青木昆陽が日本にさつまいもを広めたように、食糧問題を抱えている国にさつまいもを広めたいという気持ちをずっと持っています。いつか、どこかの国で、さつまいもを広めた日本人がいたという記録が残れば面白いですよね」と橋本さん。

さまざまな人の手を通じて海を越え、はるばる日本へやってきた、さつまいも。太平洋の島国では神聖な作物とされていたり、ある地域では主食として重宝されていたりもする。
世界中に広がる価値はいったいどこにあったのか。霧島酒造は2009年からルーツプロジェクトを立ち上げ、さつまいもの学術的な背景を探ってきた。しかし、その真のルーツには謎も多く、さつまいもへの探究心は募るばかりだ。
青木昆陽や橋本さん同様、霧島酒造もまた、長年さつまいもに魅了されてきた企業の一つ。さつまいもは、時代を超えて人々を結びつけていくほどの魅力に満ちている。

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