2024.01.31

質実剛健の初代。創意工夫の先代。親子3代で織り成す「霧島らしさ」。

  • #歴史

始まりは小さな商店からだった。
江夏家を通じて紐解く、霧島酒造の歩み。

霧島酒造の歴史は、1916年、江夏吉助(えなつ きちすけ)が宮崎県都城市の「川東江夏商店」で焼酎製造を始めたところから始まった。

創業当時の様子

1945年には二代目社長・江夏順吉(えなつ じゅんきち)が跡を継ぎ、現在は、順吉の次男の順行(よりゆき)が代表取締役社長、三男の拓三(たくぞう)が代表取締役専務として、霧島酒造の看板を背負っている。
大正時代の創業から100年超。霧島酒造の礎を築いた初代と二代目から、受け継がれてきたものは何か。順行と拓三に話を聞いた。

「焼酎の里 霧島ファクトリーガーデン」にある「霧島創業記念館 吉助」。ここは初代・吉助の時代に建てられた創業社屋を移築したものだ。
店舗としても使われていた広い土間、その奥には江夏家の居住空間、窓の外には吉助の趣味だった立派な庭が広がっている。「私はここで、産婆さんに取り上げられて産まれたんですよ」と、懐かしそうに語る順行。

霧島酒造初代社長 江夏吉助

吉助とは直接会話したことはなかったが、祖父が営んでいたこの店舗兼住居が、順行と拓三の幼き日の原風景だ。
ふたりが幼い頃は、家と会社の境界がほとんどない環境だった。社員が常に出入りし、杜氏が麹室で寝泊まりし、家族同然のように過ごしていた。夕方には仕事を終えた人たちが集まり、広間で宴会が始まる。
そうやって育ってきた思い出は、順行が大切にしている霧島酒造のあり方にも影響を与えている。「焼酎があり、そこに人の笑顔がある。それは私が幼い頃からずっとここで目にしてきた光景です。お酒とともにある『幸福な時間』をつくることが、霧島酒造の使命だと思っています」。

霧島酒造二代目社長 江夏順吉

二代目の順吉は、一言で表すと創意工夫の人だった。
現在の東京大学で応用化学を専攻した無類の機械好き。順行と拓三も、幼い頃から父が機械を前に目を輝かせて熱中している様子を見ていた。「どこから持ってきたのか、戦車に乗って敷地の山の木を切り倒したり。とにかく常に面白いもの、新しいもの、レベルの高いものを求める人でしたね」と拓三は語る。
※戦後、不要となった戦車が改造され、更生戦車として民間利用(重機や建機)された時期がある

順吉はその独創性と思い切りの良さで、霧島酒造に次々と革命を起こした。当時の焼酎業界では異例の「杜氏(とうじ)制度」の廃止、機械化による生産規模の拡大、オリジナル蒸留機の発明、また、乙類焼酎を「本格焼酎」という呼び方に改めるように提唱するなど、従来のやり方や固定観念にとらわれず、焼酎業界をも変えていった。

E-Ⅱ型蒸留機

「社長室に寝転がって、どうしようこうしようと思案して、好物のうなぎを食べて、また寝転がって考える。マイペースに見えて、頭のなかにはいつも型破りなアイディアがある。そんな人でした」と拓三は父の姿を振り返る。
そんな姿を見て育った拓三は、父譲りのエネルギッシュさを発揮している。
霧島酒造には、焼酎粕からバイオガスを生成し燃料として再利用する設備があるが、これは拓三の強い想いが結実したものだ。当時、焼酎粕は廃棄するしかないとされていた。そこに、まだ新入社員だった拓三が疑問を呈したのだ。「何かがそこにある予感を感じたら、とことん突き進まないと。そういう姿勢がなければ、何も生まれないということを、父の背中から学びましたね」。

一方、順行は祖父や父が残してくれたもの、そして、足りなかったものを冷静に見つめていた。
「父は『良いものを造れば売れる』という考えの人だった。だけど私は、それだけでは駄目だと考えて、ずっと営業に力を入れてきました」。
順行が入社して3年目の1973年当時、未開拓の土地だった福岡へ、2トントラックに800本以上の焼酎を積み、片道8時間を移動した。九州の大手企業の門を叩き、宮崎県民の人脈を頼り、一升瓶とさつまいもを持って挨拶に回った。行きつけの居酒屋を聞き、そこにも売り込みに行った。一対一でのコミュニケーションを繰り返し、泥臭く販路を広げていった。
順行が跡を継いだ1996年の霧島酒造は、焼酎の生産量で業界8位の地方の一企業。(酒類食品統計月報1996年から引用)
「どげんかせんといかん」という一心でさらに売りに心血を注いだ結果、2012年の実績で初の焼酎メーカー売上日本一になった。(帝国データバンク調べ)
品質を重視した父・順吉とは異なる売り方について、順行はこう語る。
「品質が良ければ売れるということはない。営業も大事。だけどそれは、品質に絶対の自信がなければできないことでもあります。吉助おじいさんの時代から脈々と受け継いできた『霧島らしさ』の掛け算が、霧島酒造の今をつくっているんです」。

初代・吉助は、みずから焼酎をふるまっては、人々がおいしそうに飲む姿を見て「よしよし」と顔をほころばせていたという。二代目・順吉は、「おいしい芋焼酎ができたら僕自身が東京に持っていってお客様に勧めるのだが」とつぶやいていたそうだ。
お酒とは人々に幸せをもたらす何物にも代えがたいもの。二人の想いは順行と拓三に受け継がれ、今ここに生きている。

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