2021.12.22

勝負の地は福岡。黒霧島が「黒キリ」と呼ばれるまで。

  • #歴史

黒霧島のおいしさを知ってほしい。
その想いが原動力だった。

「先が見えない不安はありましたよ。それでも自分たちのやってきたことを信じようと思ったんです」
企画室の副部長である松尾忠洋と営業本部の課長である藤原節也、同期入社の二人が黒霧島拡売に捧げた怒涛の日々について語ってくれた。

本格芋焼酎『黒霧島』は、霧島酒造にとって大きなターニングポイントになった商品だ。
しかし意外にも、当時社内で掲げられていたのは『脱芋・脱九州』だった。
二人が入社した1997年、霧島酒造の売上の大半は九州で、東京・大阪などでは宮崎の郷土料理店でたまに見かけるくらいの状況だった。
芋焼酎になじみがない土地では「芋焼酎=芋くさい」というイメージが強い。
そのような場所での販路拡大を狙うなら、芋以外の原料で勝負すべきという考えが社内にあったという。

そんな中、1998年6月に、黒霧島を宮崎県限定で発売。そこから風向きは徐々に変わっていく。
おいしいという声や、売れているという肌感。これなら、全国でも芋焼酎でやっていけるという可能性を感じたのだ。
創業当時から芋焼酎を造り、極めてきたという自負はある。麦や米で二番手になるより、やはり芋焼酎で日本一になりたい。
その第一歩は、当時焼酎の消費量日本一だった福岡から始めることにした。
そして、黒霧島を皮切りに福岡県での売上を2倍にする『福岡2倍作戦』という方針が決まったのだ。
「入社4年目だったんですけどね、もう理由も分からずただただ驚いたことを覚えています」と藤原は苦笑いで語る。この大きな方向転換に現場は混乱状態だった。

ハードルは高いがやるしかない。
当時は、飲食店で焼酎を注文するとき、「芋・麦・米」などのカテゴリーで注文する人が多かった。そこを、「黒霧島」と銘柄を指定して注文してもらえるようにするにはどうすれば良いか。
とにかく福岡の現場では、考えうる限りのことにチャレンジした。
その中で、斬新な取り組みも多く生まれた。

一つは、ハローレディによる販売店の巡回だ。約2000店舗のスーパーなどを福岡支店の営業社員だけで回ることは難しかったため、ハローレディと呼ばれる女性スタッフにも巡回してもらうという取り組みだった。
「ハローレディは、1日8店舗を巡回する想定でいましたが、20店舗を上回る日もあるくらい頑張ってくれたんです。うちが黒霧島に対して本気なんだというのが伝わったのは、ハローレディの力も大きかったと思います」と松尾は語る。

福岡のイベントにて黒霧島のロックをふるまう『黒キリ隊』も結成。お祭りなどで焼酎を一定数購入してもらうと、無料で踊り子が出向いてお祭りを盛り上げるという、宮崎で行っていた「踊り宣伝隊」を参考にしたものだ。
地域のイベントは売り場やメディア以外でお客様との接点が持てる貴重な場所だ。黒キリ隊は、よりお客様の生活に近いところに入り込むきっかけになった。

そして、今も話題になるのが、前代未聞の取り組みだった『早朝サンプリング』だ。焼酎と早朝。一見相性が悪そうに見えるが、これにはねらいがあった。
「夕方飲み屋に入る頃には、もう何を飲むか決めているかもしれない。意思決定のもっと手前をねらってみよう。朝、出社前に手渡すことで職場での話題になるのでは」という話から生まれたアイデアだった。

最初はなかなか受け取ってもらえず捨てられることもあったが、黒霧島の浸透とともに、喜んでもらえることも増えてきた。
そこで、サンプリング商品にアンケート用紙を巻き付け、抽選で当選した方の所属企業50社に黒霧島200mlペット30本が当たるキャンペーンを行った。その準備はすべて手作業。
「福岡支店の営業社員は、朝から晩まで準備に追われた。土日でも会社に行くと誰かがいて、一緒に準備を進めてくれて。そんな仲間の姿に救われていました」と松尾は語る。
黒霧島ののぼりとともに、商品を届けて職場を盛り上げる。それは贈り手にとっても受け取り手にとっても、楽しいひとときだった。

黒霧島のおいしさを知ってほしい。
その一点だけのために全力を注ぐ毎日の中で、藤原がとある飲食店の前で、開いていた入り口から「黒キリちょうだい」の一言を耳にした。
営業である藤原が黒霧島の取り扱いを把握していない飲食店、つまりお客様の口コミで黒霧島を置いてもらえている店で、「黒霧島」ではなく「黒キリ」という言葉が聞こえてくる。
思わず店内に目を向けると、キープ用の棚には黒霧島の瓶が所狭ましと並んでいた。
仲間と一緒に追い続けてきた目標が、現実になりつつある瞬間を目の当たりにしたのだ。
「黒霧島が動き出す実感が湧きました。言葉にならないですね、とにかく鳥肌が立ったんです」
当時の感動を目をキラキラさせて藤原は語った。

苦難の甲斐もあり、今では黒霧島は日本中で飲んでもらえる焼酎になった。
「大変だったんですけど、今思うと楽しかったんだと思うんですよね。冗談言い合いながらも、仲間のために頑張ろうと思ってね。発言を否定する人もいない。だから、いろんなアイデアも生まれるし、だれか一人が始めたことでも、仲間みんなでなんとか形にしたいと思えるんですよね」

松尾と藤原から多く出てきたのは、同僚でも同期でもなく、「仲間」という言葉だった。周りにいる仲間が、モチベーションになる。
黒霧島を囲む環境は変わっても、当時の日々の中で培ったその想いが消えることはないだろう。

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